続 初釜と重ね茶碗と思想について

こんばんはんこ

 

立春が過ぎさり暦ではもう春ですね。

春なのにお別れですか春なのに涙がこぼれますという年齢ではなくなったなというのが実感です。

 

春と言えば大規模異動のシーズン。

単純に考えて同じメンバーで4月は迎えられないだろうなと思う今日この頃。

自分が異動したら1から仕事を覚えなければいけないから大変だろうなと思うし誰かが異動したら仕事の割り当てが変わるからいやだな。

 

さて俗物にまみれた話は終わりにして本題に入ろう。

 

かなり日にちが経ったから記憶が少し曖昧で。

初釜で重ね茶碗をやったのだけれど、コロナ前は重ね茶碗は2つの茶碗を何人かで飲むというのが主流だった。濃茶全般がそうだった。

 

しかしコロナが流行りだして公衆衛生的にうるさくなってきた世の中になり1つの茶碗を数人で飲むという文化が無くなった。

濃茶を上手に点てるには湯が煮えているのがマストで熱いうちにお客に出さないと味がマズイ。

数人前を一気に点てるから湯の量もその分多くなり熱を保つことができたけれど、各服点てになると1人前がマストになるので湯の量がどうしても少ないから昔に比べると冷えた濃茶が出てくるのは化学的に仕方がない。

 

濃茶は数人で飲むものという意識で育ってきているし3人前くらいが温度も味も一番美味いと個人的には思っているので残念な風潮だ。仕方ないけれど。

 

ただ、ハッとする事があって濃茶は数人で回し飲みするから人によっては汚いのを我慢しているという事も聞いてそうなのかもなと思った。

確かに若いお嬢さんがいたら(現実にはいないけど)オッサンの俺が飲んだ後に飲むのは嫌かもなと思った。

オッサンは化学物質的に嫌な匂いがするというのは証明されているし。

そう考えると若い人の濃茶のハードルは下がるのかもなと思った。

 

個人的に石田三成より徳川家康が好きなので石田三成はあまり好きではないのだけれど、本当か嘘かは置いて置いて大谷吉継の病気の膿が茶碗に入ってしまった時に誰も茶碗に口をつけなかったのに石田三成が一人で全部飲み干してとぼけた恩があるから関ヶ原の戦いに参戦したという話は好きで令和の世でも思想で何かのドラマがどこかで生まれたのかもしれないと考えてしまう自分もいるわけで文化として残ってほしい面もある。

 

こればかりは人それぞれで感度が違うしわからない。

オッサンの飲んだ後でも気にしない人もいれば嫌すぎて具合が悪くなる人もいるわけで。

答えがないのも茶道らしくていいんじゃないのかなと思った。

 

各服点ての濃茶は3人前の濃茶に負けるという事は間違いないと思う。

というより各服点てはより高度な腕が必要とされる点てかただなと思う。