対価の価値について

ずいぶん放置していた。

前の記事は春前で今は立夏が過ぎて初夏になる。

きつい年度末と初年度に突入してGWになったものの明日から仕事だ。

休みっていうのは一瞬で過ぎていくな。

今年は出かけようと思っていたのだけれど、週間天気予測の悪さと宿代の高騰と渋滞にめまいがして家でゴロゴロ何もしない連休になってしまった。

 

稽古代と対価の価値について色々思うところがあったので書く。

 

茶道をやっているなら稽古代または月謝を払っていると思う。

色々な人と知り合いになって教えている人や以前は教えていた人と会話することがあった。その時に思ったことは教えている内容と金額が釣り合っているのかなと。

 

前にも書いたけど、茶道の免状をもらうための試験はない。

あくまで、そのお点前を習う事を許されるための免状なので。

自分が見て感じた事は同じランクの人でも技術や知識に圧倒的な差があると思っている。大きな声では言えないけど。

 

そういうのを見ていると今お弟子さんがいる人と昔お弟子さんがいた人を見てなるほどなと思った。

 

バブルの時はいざ知らず、日本の通貨の価値が下がり円の通貨の信用度が下がり日本の格付けは東南アジアにギリギリ勝っているというこのご時世でお金は無駄に使えないと思う世の中だから白黒はっきり出るのかなと思った。

 

物を買うとか旅行に行くとか高級な飯を食べるとかという目に見える価値にお金を使うのと茶道のように精神性や芸術の心のように目に見えない価値にお金を使うのとは難易度的に目に見えない価値にお金を使うのは難しい。

やっぱり即物的な物にお金を使うのが人間の多数ではないのかなと思っている。

 

それと同時に物の価値と金額についても言えることがある。

例えば高級ブランドショップの物が100円ショップのクオリティーしかないなら100万を出してまで買うのだろうか。逆に100円ショップで高級ブランド並みのクオリティーが提供されたとしたら、そちらを買うのではないのだろうかと思う。

 

もちろんブランド名があるからという理由で買う人もいるとは思うけれど、客も馬鹿じゃないから買う人が減っていくだろうと思う。

 

茶道も同じ事が言えるのではないのだろうかと思う。

言い方は大変よろしくないのだけれど、俺が今の先生の所で稽古しないで他の先生の所についていたら金をドブに捨てるのと同じだから辞めていた気がする。

 

やっぱり生徒もバカじゃないと思う。お金と時間を使っても何も得るものがなければ続かないと思う。

狭い世界だから他の先生の所に行くのは許されない世界だと言われたら業界自体を捨てるのは理解できる。だって生きる上で必要のない世界だし。衣食住の優先順位を上とするなら優先順位は下の下に位置すると思う。

 

新しい人が入ってきてほしいなら払った月謝分の何かを相手にあげれる業界にならないと伝統文化というだけで人から忘れ去られる文化になるのかなと思った。

 

時代も変われば人も変わる。

進化とは適応する事という記事も見たことがある。

 

貧乏リーマンで道具もないし人を教えるのは無理なのは承知の助。

たとえ道具や教える場所があったとしても俺の技術や知識じゃ二度と人が来ない自信はある。

ない人生だと思うけど月謝取るなら月謝分の価値を相手に提供できるようになりたい。まだまだ修行不足だけど。