茶道をやると仕事ができるようになる理由(気のせいなら許してね)

オッス、今日は重陽節句だゾ。

こんな時に重陽節句のキラキラした写真の載せたり重陽節句の能書きを垂れ流ししないのは俺らしい。

前にも少し書いたかもしれないが、本日は茶道をやると仕事ができるようになる理由を書いちゃうぞ。

 

茶道をやると仕事ができるようになる(ような気がしている)

知り合いの知り合いが医者で茶道をやっている人がいて茶道をやる理由を聞いたところ「茶道はA→B→C→Dという順番で店を広げた後で仕舞う時はD→C→B→Aで仕舞うのが手術と同じで頭の体操に役に立つ」と言っていたらしい。

 

なるほど。手術の手順はわからないが、そういう側面から見ると茶道の稽古は確かにそうだよなと思う。

昔はやりっぱなしのほったらかしだったが、今は仕事でやりっぱなしは俺はしなくなったな。

きっちりやるという癖がついているのだろうと思った。

 

俺自身の経験で茶道が役に立っていると思う所は「適当にやらなくなった事」。

茶道は決まり事がうるさい部分も多いけれど、うるさくない部分も多い。

 

例えば、蓋置を置くときは畳の5目か6目の位置とか出ず入らずの位置とかボンヤリとした言い方をする。

決まり事がうるさいが縦~センチ、横~センチの位置に置くみたいな事は一切言わない。

これには理由があって体の大小や腕の長短等、人には体型と言うものがあるから。

 

じゃあ適当に置いていいのかと言うと答えはNOで適当に置くと本当に困る。

たった畳1目、1センチずれただけで大変な事になる。

適当に置いたら体に無理な体制でお点前をしたりする事になり、本人が一番困って苦しむ。

適当人間だった俺が適当にやらなくなった理由は簡単で稽古に行く度に困っていたからだろう。

人間バカでも学習して身に付くようになるのは自分が本当に困った時だと思う。

 

適当にやると痛い目を見るという事が何年も稽古を続けている事で根っこの部分から学習されて適当にやらなくなった、それだけの事だった。

大昔は信用できない仕事内容だった俺が今では仕事は確実にやるとお褒め頂くことが増えた。

 

稽古で学んだり躾られたからなのか適当にやる事はなくなった。

それにある時に気が付いたんだけれど、相手がいるのに適当にはできないよなという気持ちも持てるようになってからというのもあるのかもしれない。

 

最後はちょっと茶道の良い所を伝える文が書けたな。

 

そういう意味では手抜きをしない為の教育として習うのはいいのかもしれないと思った。