見ているつもりでも何も見ていないじゃぁないか

こんばんワクワクワック。

ごきげんよう」って挨拶を本当に使っている女子高があると言う真実を最近知った。世の中って知らないことだらけだなと思う今日この頃。

仕事も知らないことだらけで知識って重要だよなと改めて感じる日々です。

 

さて、「見ているつもりでも何も見ていない」というタイトル通り、そのままの話をするぞ。

 

茶道の稽古をしていると先生によって大なり小なり違うとは思うのだけれど、先生が稽古内容を考えてくれて、それを教わるというのが一般的だと思う。

 

先生は教えるメニューを考えているわけで先生の意図というか考えが稽古の中に入っているわけだ。

わかりやすく言うと夏に筒茶碗を使う稽古をしたり夏に霜柱のお菓子を出す先生っていないでしょ?

 

先生が10教えたとしても習うこちらは頑張っても3くらいしか先生の意図を知ることができない。いや3も無理で1がせいぜいだろう。3も知ることができたら先生から習う必要もないだろうし。

 

と受けてが何を受け取るかというのは本人次第というわけで、なかなか難しいことなのよ。

 

本題に入ると先生は色々メニューを組んだり掛け軸や花など準備をしてくれているのに受けてのこちらが何も気が付いていないという事が多々ありすぎる。

 

この間、見ているようで全く見ていないと叱られたのはこういう事なのだろう。

掛け軸、茶杓の銘、季節の事とかは習った年数は聞いているはずだから俺は12回は聞いているはずだ。なのに全然覚えていないし忘れているし。

お菓子の取り方も最初に聞いているはずなのにできていない。

最近、ようやっと茶巾を畳むときにどうして裏表があるのかという事が12年経って理解できた。

 

ぼんやりとやっているつもりはないけれど、見るところを見ていないから気が付けない。それが30年経って気が付かない人もいるし、俺もそうなっている可能性があるわけで。

 

高い道具や立派な着物をきているけれど中身が薄い人もいるし、それにごまかされると成長しなくなる。茶道は道がつくから一生修行だと思う。人間的に成長できるかどうかは何故にそうなるのかをしっかり見ていないといけないなと思う。

 

そういう自分への訓戒をこめて日記をかいた。

 

おわり