たまには昼の稽古にも行かないとな

こんばんワンコ。

 

GWも後半に差し掛かり休日スタイルに慣れた体が月曜から仕事に行けるのかという五月病にかかりつつある今日この頃。

 

うちの稽古場は休日もやるという稽古場なので休みを利用して他の人が稽古してる時間に合わせて稽古に行ってきた。

 

いつもは俺一人で稽古だしお茶も自分で点てて自分で飲むから稽古は楽しいんだけど寂しい時もある。人間だもの。

 

先輩方はさすがの一言でした。ジョセフジョースターの年季が違うという感じで落ち着いているしゆったりしていていいと思った。

 

ただ、驚くほどビックリしたのが道具の拝見の時に聞く内容や順番などは頭の中にしっかり入っているのに、いざ口に出すとなると出てこない。

弟弟子と2人で稽古していた時は亭主役、客役でそれぞれの担当があったから聞くのは大丈夫だったのに。

 

知っているし身についていてもブランクがあると出てこないんだなと思った。

一人で淡々と稽古するのも大事だけれど誰かと一緒に稽古するのも大事だなと痛感した。

両方やってしっかりと形になる。

そんな事を腹にずっしりときた1日でした。

 

おわり

襲いかかってくるマウンティングゴリラには覇王翔吼拳を使わざるを得ない

こんばんわんこそば。

4月から新しい職場で気を遣うし新しい仕事もあるしホンマ疲れたわ(エセ関西人)

今回もいつものように文句から始まる記事なので批判は無しでお願いします。

 

俺はあまりお付き合いのお茶会に参加した事がない。

ありがたい事に皆さんいい人だから色々なお茶会に行こうよと誘ってくださる。

興味がないわけでもないのだけれど、お茶会に参加するのってお金がメチャクチャかかりません?

 

他の人の話を耳をダンボにして(死語)聞いてると大橋(どこかは知らん)や大徳寺に行っているみたいだ。

興味本位でおいくらと聞いたら俺にはマジかよ!という金額で氷河期世代の貧乏サラリーマンがまともにお付き合いをしていたら借金以外の選択肢がないと思うんですけど。

行きたいけど行けないが事実で半分の理由でござる。

 

残り半分はお茶会に行った時にすごく嫌な思いをしたから行かない。

詳細は省くがどうしてこんなに失礼で頭の悪い事を言えるのかなと思ったし会社の中なら説教部屋に呼び出しか居酒屋ならバトル発生で俺のロケットパンチが飛んでいる案件だったと思う。

 

あまりにもトサカにきたから先生や社中の人にに聞いてなるほどなと思った。

 

お茶をやっている人はガチの金持ちが多いらしい。家が超裕福だったり医者、弁護士、社長の奥さんとか。生活の事を考えなくていいレベルの人が多いらしい。

 

茶道の業界に迷い込んでしまった俺は働いたことが無い人、貧乏人を下に見る人、社員を下に見る癖がついてる人等のマウンティングを取るメスのマウンティングゴリラの集団に遭遇してしまうという現実に直面してしまったわけだ。

 

その人の生活や着物や道具という簡単かつ圧倒的にマウンティングを取りやすい物で襲い掛かってくるから本当に手口が解りやすい。

先輩方も色々嫌な思いをしてきたみたいだから茶道業界の伝統なのかもしれないなと思った。伝統芸能だけに(山田君、座布団持ってきて)

 

ウホウホ鼻息荒くしてお金で勝った負けたのマウンティングを取り合い、勝てばドラミングをして雄たけびをあげ、負ければ負けたもの同士で陰口でストレス解消というなんとも陰気な世界だなと思った。こういうのがあるから若い人やりたがらないんだろうなとも改めて思った。

 

そんな話を聞きながら貧乏人の僻みかもしれないけれど一言だけ物を申させてほしい。

 

お金があるのは事実かもしれないが稼いだのはお前じゃないからな。偉い職業についているのは旦那さんであってお前じゃない。いい物を身に着ける事ができる環境に恵まれたとか、そんな人を捕まえたという反論もあるのかもしれんが、そんな事を言ったり思ったりするなら人間として下の下のウンコ野郎だと俺は思うよ。

 

床の間に禅語の掛軸が掛けてあるくらいなんだから茶道って禅の流れをくんでいるものではないの?俺はよくわかってないけど。禅とマウンティングは相反するものだと思うのだけど違うんですかねぇ。

どなたか詳しい方がいたら教えてください、なんでもしますから(なんでもはしません)

 

お金が全てではないにしてもお金がかかる趣味だと思うから業界的に仕方ない部分はあると思うのだけれど、宗家のホームページに「習うには審査あり!年収〇〇万円以下はお断り」みたいな事が書いてあれば業界に入る前の覚悟が違うと思うし、貧乏リーマンの俺みたいに嫌な思いをしなくていいと思うし茶道はやらなかったと思うの。

 

と一言のつもりが長くなってしまった。

金を持っている顔も知らないマウンティングゴリラに遭遇したら覇王翔吼拳を使わざるを得ないと心の底から思っている。

もし覇王翔吼拳を使えたら間違いなく使うね。

 

 

 

 

スーパーの和菓子と老舗の和菓子

こんばんワイン。

 

送別会ができる世の中になって良かった。

会社の飲み会は嫌な人は嫌だろうけれど、何も無くてハイさよならよというのは俺はやっぱり寂しいと思うから開催されて嬉しい。

 

最初にだけど、けなすつもりはないという事だけはハッキリと伝えたかった。

 

さて、「ポックン茶道をやっているのよ」と相手に伝えると大体の人から「和菓子って甘過ぎるよね」と言われる。

お茶をやっている今だからこそ「和菓子はそこまで甘くないぞ」と大胸筋を張って言えるのだけれど、やる前の自分も和菓子=甘過ぎだったなという意識だったなと思い出した。

 

俺も最初は和菓子=甘過ぎだったのに、何で今は甘くないと思えるようになったのかを冷静に考えてみると和菓子といえばスーパーの和菓子だし老舗の和菓子を食べた事なかったよなという結論になった。

そういえば「和菓子って程よい甘さで好き」という珍しい人に会った時にどんな和菓子を食べてるのと聞いたらお婆さんがデパートで買ってきた和菓子を食べてた経験がある人だったっけ。

 

俺はスーパーの和菓子のコンセプトについては全くわからんのだが、老舗の和菓子のコンセプトはちょっとわかる気がする。

 

濃茶にはどうして主菓子かという事を数式モドキでざっくり説明するとこんなイメージ。

成分表みたくすると濃茶と主菓子を以下のような感じになる。

・濃茶=とても苦い+茶葉の濃厚な香り

・主菓子=目で季節を楽しむ+甘さ

 

主菓子を食べて濃茶を飲むと苦味と甘味がほぼ相殺されて

・濃茶=とても苦い+茶葉の濃厚な香り

・主菓子=目で季節を楽しむ+甘さ

 

結果としてこんな感じになると思う。

・濃茶+主菓子=ほんのりとした甘さ+お茶の香り

 

仮に濃茶で干菓子を出すと苦さと甘さが打ち消しあっても苦さが勝つし、逆に薄茶に主菓子だと甘さが勝つという理屈になる。

だから濃茶には主菓子、薄茶には干菓子が合うという事なのだろうと思っている。

 

じゃあ何でスーパーの和菓子と老舗の和菓子の甘さの違いがここまであるのかというと多分、作っている人が茶道をやっているかやっていないかという所だと思う。

 

実際にツイッターで老舗の和菓子屋を追いかけているのだけれど、俺が個人的に大好きなお店の森八の女将さんは茶道をやっているし、公表しているかは不明だけれど京都の老舗の和菓子屋は絶対に茶道をやっていると思う。

じゃないと濃茶の邪魔をしない絶妙な甘さは出せないと俺は思っている。

 

正客の方からお菓子はどこの何ですか?と聞くセリフは亭主がどこから何を取り寄せてくれたのかなという心配りが聞きたいんだろうなと理解している。

 

言いたい事がグダグダになってきたけれど、茶道には濃茶、薄茶専用の和菓子があって人に出すときは美味しい物を出すのが礼儀だからだし、老舗の和菓子を出せばハズレは100%ないという信頼と実績が昔から残っている強みだと思う。

 

友人でお茶を飲みたいという人にお茶を差し上げるならお菓子の準備もちゃんとしないとお茶の美味さを全く伝えられないというお話でした。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

思った以上に何にもできないの巻

春爛漫。

 

桜が咲き始める時期になった。

ようやく過ごしやすい季節になってきた中でのお手伝い。

 

いつもはできないくせにそこそこできる風を装って偉そうに記事を書いている。

お点前の順番は何となくわかってはいるし、薄茶はお金を取れるレベルだと自負できるものの、その他は結構散々なもので10年選手とはいえ恥ずかしくなるような事ばかりだ。

その恥ずかしくなることが現実に起こってしまい参った。

 

茶名をもらうのは武道の黒帯と同じでスタートラインに立ったばかりということは先生から聞いていた。10年ひと昔という言葉があるくらいだから昔とは違うんだぞと自分自身に違いを見せつけようと思ったので水屋仕事のお手伝いをしたよ。

 

まぁこれがまた本当に自分でも悲しくてビックリするくらい何にも出来なくて正直、目を白黒させてしまう。

 

茶碗を温めていないとお茶がまずくなるというのは体感として知っているのだけれど、お湯をいつ切って茶碗を拭き、お茶を入れて亭主に渡すタイミングが全くわからん。

 

さすがに間に合わないという事態は避けなければいけないから少し早めに準備をしたが正確に自分が準備できる時間が読めなくて茶碗が冷えた状態で渡してしまったと思う。

 

いやー。できないのは知っていたけれど、ここまでできないとは情けなくなるね。

ひと昔前とあんまり変わっていないじゃないかという状態だ。

 

仕事の合間に稽古に行って時間も労力もかけてきた結果がこの程度かという現実を見るのはしんどいものの、おば様達は「あなたの年数ではこんなものよオホホ」と言ってくれた。

みなさん50年選手だから重みが違うね。

あと何十年経ったら恥をかかずに済むのかは今の所は全く不明で反省はするけど心の中で文句を言いたい時に文句は言うスタイルは変わらずいこうと思った。

tradition or innovation

おこんにちは。

 

英語の練習がてら内容を全部英語で書いてみようと思ったけれど休日を全部使った挙句に疲労を月曜に持ち越す事に気が付いて題名だけ英語になった弱気な俺を許してください。

 

仕事や仕事先からよく聞くしうるさく言われるのはinnovation(革新)。茶道をやっていてよく聞くのがtraditoin(伝統)だ。

 

伝統と革新は対義語で俺は仕事と稽古では全く逆の事をやっている。

両方に触れる機会があるから伝統と革新の良さ悪さが少しわかる気がする。

 

茶道は伝統的な部分が強い業界だと思う。

伝統的であるという事は新しい事を受け入れにくいという部分がある。新しい事を受け入れると伝統も崩れていくものだろうと思うから。

 

ここからはまた文句プータローになってしまうのだけれど文句を言う。

この間、先生からN〇Kの茶道の番組を見せてもらった。

イケメン業躰を番組に出したのはおば様方から好評だったから茶道を習いたい若い女性も増えるでしょ(適当)

 

俺が見たのは夜話の回だったが残念な気持ちになった。

俺は夜話に行ったこともいし見たこともないから、こんな素敵な茶事だあるんだなと思ったし行く機会は限りなくゼロに近いけれど機会があれば行ってみたいなと思った。

 

残念な気持ちになったのは、これから茶道を始めたいと思った人に一切寄り添う作り方じゃなかったと感じたから。

何で暗い所でやらなきゃいけないの?とか暗い方が風情があるって何?とか思う人はいたと思うのよ。

 

俺はアホなりにも年数を重ねてきたから多少はイメージできるけれど全く知らない人はポカーンだよ。30分という尺の都合があるのは重々承知しているけれど玄人向けすぎてついていけない。

メディアを使うくらいだから人に知ってもらいたいのだろうなと想像するけれど伝わってないんじゃないのかなと思っている。

もし誰かに茶道を知ってもらいたいと思って作っていないなら格式高いでしょというのを見せつける酷いオナニープレイに近い物を感じる。

 

元々は茶道は戦国大名の男の世界だった(はず)。茶道が女性に開かれた理由は廃れてきたから(と聞いている)で、今もやっている人口は減っているし40代で若手とか言われている時点で未来は暗い。

ご新規様を増やさなければ行き詰まるのは明白だと思うよ。

 

伝統的であるという事は格式があるという事でもあるから安売りしない部分があって当然だと思う。

でも俺が生まれてから年号が3つ動き、スマホやバーチャルというドラえもんの世界でしかなかったものが現実世界でスタンダードになっている以上は伝統を守りつつ革新の部分がないとまた廃れるんじゃないかなと俺は思う。

 

というか若い人の茶道人口増えてくれ。

みんな年上の歴戦の戦士で口も達者で気が強い人ばっかりで辛いのよ。

本音は若い人と楽しくお茶を飲みたいです

 

初釜事件簿 ファイル1(金田一少年の事件簿風)

毎年恒例のイベントとはいえ人事異動は自分も人も動いて気が狂いそうになる・・・

本日はサラリーマンの宿命の愚痴から開始します。

題名にはファイル1と書いてあるけれどファイル2はないです。

 

初釜なんて随分前の話だけれど先生から俺の所に情報がくるまでの時間差はあるからゆるして。

これは先生のお茶仲間で生徒さんを教えている先生からの話で、俺の所にくるまで間を挟んでのお話だから話半分のつもりでメモっとこう。

 

そこの先生の稽古場では毎年初釜をやっているみたいだ。

仮にAさんとする。

どこの稽古場でも生徒さんが一定数いたらやっているんじゃないかと推測。

Aさんの所も他の稽古場と同じように月謝制で稽古は月に2回(仮)

価格は仮に1万円とする。初釜料は1万円とこちらも仮の値段とする。

 

Aさんと生徒さんが初釜で揉めたのは以下の内容。

・初釜の日は稽古日に充てられるから1月は稽古が1回少なくなる

・稽古が1回少ないという事になるから月謝も5000円にするべきでは?

・初釜も生徒側から頼んでいる訳でもないのに1万円取られるのは納得いかない

・加えてお年賀も包まなければいけない

 

先生からAさんもショックを受けていたと聞いて気持ちはわかるんだけれど、俺は生徒さんの気持ちもよくわかるから何とも言えなかった。

それは育った時代の違いだよねとしか言えないんだけれど。

 

政治の話になるのは嫌なんだけれど「失われた~年」というフレーズが毎年更新されていく世の中で俺が知った時は失われた10年だった。それが今では30年を突破して依然として先行きは右肩下がり。収入は夫婦共働きでも先生たちの時代の半分くらい。

そんな先行きが不透明な時代に俺達現役世代はいる。

俺の会社でもコストコストとうるさくて管理もシビアだ。

 

だから生徒さんの言っている事はある意味今の時代では当たり前で普通の事だと俺は思う。

生徒さんの立場で考えるなら稽古に行くお金を捻出するのだって辛いのに頼んでもいないイベントを勝手に開かれた上、何故かお包みするお金も必要で稽古の回数は1回減らされるし稽古の振替日も無いのに月謝は同じ金額という事なのだから。

 

それと同時にAさんの気持ちも痛いほどわかる。

初釜の準備は大変だし少々の初釜料やお年賀をもらったところで色々な準備や手間の大変さとを天秤にかけたら手間の方で足が出ると思う。

楽しんでもらいたいとかお茶をやっているからには年の初めや季節の事をしっかりやりたいし、それが稽古だと思って色々やっていたのに頼んでないと言われたら何のための師弟関係なのかと思ってしまうのだろうなと思うし、かなり傷ついたんじゃないかなと思う。

俺もお茶を始めたばかりだったら生徒さんと同じ気持ちだったと思う。

お茶って先生がやってくれた事って本当に見えにくいし見えるようになるにはやっぱり年月がどうしても必要な世界だと思う。

 

どちらも間違っていない。時代が違って考え方や状況や立場が違っているだけで。

じゃあどうすればいいのかと考えると難しい。

新しい人にお茶を教えてやる人を増やしたいと思うなら今時代に合わせる必要はあるだろう。逆に伝統的な世界だから変えるつもりも必要も感じないしそういう人は辞めてくれて結構と思っているなら変える必要もないのだろう。

 

伝統的である以上は封鎖的な物を含む事で守られている部分もあり封鎖的である以上は新しい物が入ってこなくて廃れていくという現実もあり正解はどっちかわかんねぇな。

 

ただ、こういので気持ちがすれ違うって悲しいなぁ・・・

 

節分過ぎたら立春で梅が咲いていたよ

こんばんは。

 

近所の誰かの家で梅が咲いているのを見かけたら春が近いんだなと感じる。

ヒートテックの上下を着ても寒すぎてセーターにシャツにコートという重装備だが。

 

梅と言えば茶杓の銘が沢山あって覚えきれない。

花の兄、此花、飛梅、鶯宿梅。

最近知ったのが香雪というのもあるのだそうだ。

 

今だとネットで調べればすぐに出てくるのだけれど多すぎて覚えきれないし覚えられる頭も持っていない。

10年以上やって4つか。

我ながらよく覚えているなと思う。自分で褒めてあげたい。

 

実は若い頃は梅の花の良さが全くわからなかった。

小さいし桜のような艶やかさがないから咲いている事にも気が付いていなかった気がする。

 

茶道で2月と言えば梅尽くしの道具がよく出るから全く知識が無かった俺でも少しずつ梅の事を知っていった。

人間不思議なもので、少しでも知ると興味がわいてくるし少しずつ好きになっていった。

 

そうすると旅行に行く時も梅の時期に当て込んだりする。

大宰府天満宮飛梅を見た時は何だか感動したな。

飛梅だけじゃなく天満宮の奥の方にも梅園があって梅ケ谷餅を食べていい思い出だ。

北野天満宮に行った時も梅が咲いていて神使の牛と梅の花を撮ったりした。

なおカメラを新調した時にSDカードを新しいカメラに差し込みデータが消えたんだけどね。

天満宮の家紋は梅だと気が付いたのも全国の天満宮御朱印をもらった時に気が付いた。

 

コウメ太夫の芸を見て育った世代だから小梅さんのイメージは熱い風評被害でよくなかったが、今だと小梅さんという名前の人は小さくて可愛らしいが筋が一本通っている人なのかなというイメージに変わりました。