茶道の先生の選び方(俺なりのまとめ)

おはようございましゅ。

旅から帰って来る途中の新幹線で暇だならブログの更新。

 

前回、茶道の先生を簡単に変えられないという話を書いた。

前回と同様に茶道を始めたい人が読んてる可能性は1ミリもないだろうけど、どんな先生に習えばいいのかを聞いたり本を読んだりと俺なりに思ったことをもう少し書くとする。

こんな先生はいるかわからないけど。

 

俺が思う良い先生

・ちゃんとしたお菓子を出してくれる先生

・稽古に行くと掛け軸がいつも違う先生

・道具や着物を買わせようとしない先生

・免状を無理やり取らせようとしない先生

 

1つずつ独自の解釈をしていくぞ。

間違っていたら許して。

 

ちゃんとしたお菓子を出してくれる先生という医見を解説する

毎回同じお菓子を出す先生は季節を大事にしないか知らないか手を抜いているかのどれかだ。

今なら紅葉の季節なのに梅のお菓子をだす先生はいないと思うけど実力はないと思う。

季節のお菓子について知りたかったら三越とかのデパ地下に見に行くか「和菓子」「老舗」で検索してTwitterで検索すると和菓子屋が季節のお菓子を紹介してるぞ。

 

稽古に行くと掛け軸がいつも違う先生というのは茶道の道具で一番大事なのは掛け軸だと思う。

カルチャースクールだと「日々是好日」しかかかってないそうだ。掛け軸も季節事に掛ける物が違うし、その時の思いを掛ける事もある。なのでここも見るポイントだと思う。

 

道具や着物を買わせようとしない先生、免状を無理やり取らせようとしない先生の解説は簡単で俺達現役世代はお金がないから。貧乏人は茶道を習うなと思ってる先生だから。実際そう思ってる人も多い世界だし仕方ない世界だ。金のある人はこの話しは関係ないかな。

茶道の道具は高い。しかも現実の生活で使える役に立つ道具は1つもない。先生から買えと言われたら断りにくいし意味もわからず買っても宝の持ち腐れだ。着物も服があるから日常生活では着ないからいらない。欲しい人は買えばいい。俺には高い着物は無理無理カタツムリ。

 

とにかく昭和な世界のままだし今の長老世代はバブルを経験してるから氷河期以降の世代の苦しみを理解できていない人が多い。少ない給料をやりくりしてるコトを理解して習いに来てくださると思って教えてくれる先生の方がいいと思いませんか?

お茶の師匠は選べというお話

放置気味のこのブログ。

仕事でいっぱいいっぱいでやっとこさで生きているので精一杯だから仕方ないね。

インフルにかかったりした時に一人暮らしの世知がなさを痛感。

 

この前、稽古に行ったら風炉から炉に変わっていて驚いた。

驚いたも何も11月だから炉に決まってんだろという話はNGだ。

 

今回のタイトルの「お茶と禅の師匠は選べ」という話について。

 

今から茶道を始めたいという人はこのブログを読むことは1ミリくらいの確率で読んでくれてると信じて書くよ。

参考になれば幸いです。

 

まず、茶道の業界はいまだに昭和初期の価値観の業界です。

これはtraditionalな世界なので仕方ないです。

変えようと思っても変わりません。昔の習わしなんてうっとおしいと思う方は向いてません。

 

基本的に先生に弟子入りしたら、その先生の所でずっと習うのが一般的です。

習いだしてから、やっぱり他の先生がいいやと思って稽古場を変えると悪い評判が錯綜します。

この業界は超が付くほど狭いので近所の先生がイマイチだから、少し遠い先生に習いに行くということはNGです。

なぜなら先生同士が知り合いの可能性がとても高く業界自体が狭すぎるのでお茶会とかで鉢合わせるということもあるようだ。

角が立たずにその先生以外の人から習いたい時は婿入りして県が変わり、稽古場に通えなくなったという時でしか円満退社ができない業界です。

 

という業界なので最初に付く先生を間違えると金だけむしり取られて何年やっても技量が上がらないというのもある意味本当です。

 

高い着物を着て偉ぶっている人もいるのだけれど、色々なところでボロがでるので張子の虎と一緒かなと思うことが多々ある。

 

じゃあお茶の先生をどうやって選べばいいのかというを教えてくれという事になるのだけれど俺にもわからん。

口コミや採点で評価できる世界ではないので仕方がないと思う。

 

今だから1つ言えることがあるとしたら、自分の直観を信じろという事かな。

あとは、この先生になら10年間の月謝を捨てても後悔はないと思える人がいいと思う。

 

俺も茶道を始めるときは表さんも武者小路さんの先生に見学に行った。

やっている事は何が違うのかは今もわからないけれど、先生と話していて合わなそうだなと思った。

流派も違いもわからないけれど、続けるのが難しそうだなと思った。

 

今の先生は何となく続けてみようかなと思える先生だった。だから今も続いている。

知り合いで先生をコロコロ変える方がいて、本人から先生を変えるという事は一切聞いていないのだけれど、周りの情報網で勝手に耳に入ってくるくらい狭い世界だ。

 

俺自身は転職回数も多いから全く気にならないのだけれど、年故序列で転職なんておかしいという人口が多いから仕方ない部分はあるのかなと思う。

 

だからこそ自分の直感を信じることと自分で決めた事に責任を持つことが大事だと思う。

 

俺の体感で話させてもらうと当たりが2割、ハズレが8割の印象がある。

着物や道具で委縮して見間違うとせっかく習ったのにもったいないことになる。

 

当たりの先生に習えるなら人間が成長すると思う。

少なくとも、俺は茶道を習う前と今とじゃ第一印象が真逆だし今のほうが人から好感を持たれる。

間違いなく雰囲気がお香のように少し香っている人間になったと思う。

 

要約すると自分がピンとこない先生に習いに行くのはお金の無駄だから10年お金を捨ててもいい先生に巡り合うまで入門するなという事。

10年やれば人間が変わるのは自分自身で証明できている。

習い事としては得るものは多いし世界が広がるから金はかかるけど、働く大人の趣味としてはとても良いと思う。

 

 

 

お客に道具を出すという事

こんばんわんこそば。

 

もう立秋。秋ですねぇ。

と言いたいところだが36℃で地下鉄を降りて地上に出ると心臓が痛いくらい暑い。

早く涼しくなって欲しいっすよ。

そして帰る前にメールを開いたら帰れない案件を投げるのやめて・・

そんなこんなで泣き言から始まる我がブログ。

 

 

今日は聞いた話だから真偽はわからないが、本当だと思った気持ちを書く。

 

俺が基本的に稽古の時は稽古道具(とはいえ稽古道具でも俺の給料から見ると高いと思う)を使ってる。

俺みたいな下手くそがやると茶碗を落として割る、袱紗で茶杓を清める時に強く握って折る等の様々なリスクがあるので先生は有名な人が作った道具を稽古では出さない。

逆の立場なら当たり前の事で俺は文句は全くない。

 

ただお茶時になると人を招いてる以上、プラスチックの棗は出せないから秘蔵の道具や年代物の道具を出すのが普通だ。大寄せの茶会でも本物の道具は出てくる。

 

先生が茶友のお茶時に招かれた時にご亭主がすごく華奢な茶杓が出したそうだ。拝見に出す時に袱紗で清めた時に櫂先がポッキリ逝ったそうだ。見ていた先生も焦ったと言っていた。

その茶杓はご亭主のひいおばあさんの時代からの物だったらしい。袱紗でフワリと清めてもお茶を丁寧に優しくすくっても、わずかなダメージが重なり経年も手伝って折れたのだろう。

その時の亭主が「茶杓は折れる覚悟で使っております」と言える覚悟がすばらしいと言っていた。

 

そうだよなと俺も思った。

値段は高いのはもちろんだけど思い入れがある道具を人に出す覚悟。それこそが相手をもてなすっていうことなのかなと思った。

形あるものはいつか壊れる。高い物や思い入れがあるものも使わないと一生押し入れの中。

人の為に道具を出せるって本当に覚悟のいる事なんだなと思った。

 

そしてその道具や覚悟を感じ取れるのか否かは客側の力量にもよるよなと思った。

先生が相手の気持ちをレシーブできたから亭主の人も道具は壊れたけど相手に伝わったという事で少しは気分が救われたのではないかなと思う。

 

亭主の方も客の方も力量を持っていないと伝わりにくい事は全く伝わらない世界なんだろうなと思った。

伝わりにくい事をレシーブできるように修練あるのみなのだろう。

 

伝わりにくい事を少しでもレシーブできるようになれたなら、もっと仕事や生活や人間関係の質が豊かになるんじゃないかなと思うの。

 

道具とか着物とかさわっちゃうのォオ?

こんばんわんちは。

 

今日もいつもの通り泣き言から始まります。

もう七夕ことしちせきの節句も終わり夏本番。

有給とって那智の火祭りに行こうか祇園祭に行こうか悩んでたけど、そもそも休みが取れないんじゃあ無理じゃないか。もう許せるぞオイ。

 

さて、今日の文句は着物と道具を勝手にベタベタ触るか否かを問いたい。

 

ちなみに俺は触らない派だ。

けど女性の着物にはとある部分(どこなのかわからない)に男性が手を入れやすい用に作られてる秘密の部分があると小耳に挟んだ事があり一度は手を入れてみたいと夢見る派ではある。

 

前に人の着物を「素敵な柄ね」と言いながら触る方がいたのよ。

しかも上のランクの人だから余計に驚いた。

 

おいらビンボーサラリーマンだけど着物は1つくらいオーダーで作ってみたいと思ったの。相場はいくらかなと無知丸出しで日本橋の老舗デパートにカチコミした。そしてあまりの値段に自分でジャーマンスープレックスしそうなくらいおったまげた。

飾ってある着物なんて着物を知らないドシロウトでも高いとはっきりわかるレベルだ。

 

話を戻すと景気の良い時代に茶道できた人だから多分、それなりの値段の着物を着てるんだと思う。

そんな高い着物をベタベタ触って汗染みとかつけてしまう可能性とか考えられないのだろうかと本気で思った。

俺より上のランクなのにそういう事も考えられないのかなと。

 

道具も同じ。昔の年代物の道具をベタベタ触って傷つけたり壊してしまったら取り返しの付かない事になるとか考えられないのかと思ってしまう。

 

まぁ俺の着物は古着市の安物だから気にしないからいいんですけど他の人はマズイだろと思った。

 

その人のついた師匠が悪いのか、その人が師匠から何も学んでなかったのか。それは俺にとってはわからないし知ったこっちゃないけど、その人からお弟子さんがいる、あなたは弟子を取らないのと言うのを聞いた時は戦慄したよ。

マジかよ。弟子も同じ事やっちまうに決まっとるやん。そして俺が弟子をとったら品のないアホが量産されるだけなんですけど。あーもうめちゃくちゃだよ。

 

高い着物を持ってて博識の方、自分の着物や道具を他人に触られるのは嬉しいのか不快なのか気にしないのか教えてください。オナシャス。

 

 

雨の日の茶事でのこと

こんばんワカメカツオタラちゃん(ちょっときつい)

 

お茶はそこそこ美味いものを差し上げられるが、掛け軸が読めない、茶花を見てもわからない、知識も浅い、お点前が酷い、動きが雑ゥ!など割りと先生から褒められる事が少ない馬鹿弟子な自覚はあるのだけど、先生から久しぶりに褒められた(稽古を始めてから2度目)

 

後にも先にも先生から褒められたのは10年過ぎたあたりで毎週稽古にくるのは偉いと言われたのみ。

 

褒められたのが2回しかないとか書いてて悲しくなるな。泣いていいですか?

美人の胸で泣きたいので我こそは胸を貸してあげるという人、お待ちしてます。

と気持ち悪い内容はここまでにして本題に入ろう。

 

茶道と言えば一期一会。茶席も一期一会だと俺は思う。

季節によって、亭主や正客の雰囲気によって変わってくるものだと思う。

何を求めてお茶会に行くのかは人それぞれだから俺は何も言わない。

 

その日の茶会は雨がそこそこ降っていた。

俺は今日は黙って座っていればいい位置に座ることができたので少し気を抜いていた。

茶道は日本の稽古事なので礼に始まり礼に終わるのが基本というか大事な約束事。

 

襖が開き薄茶が始まる時に総礼をする時、俺は忙しい日常に疲れていたのもあって窓の外の雨に濡れていた庭をぼんやり見ていた。

皆が頭を下げているのに俺だけ頭を下げないで庭を見ていたら当然先輩方からお𠮟りを受けた。俺は素直に「ごめんなさい。私の家には庭が無くて雨に濡れた庭がとても綺麗で見とれていて総礼するのを忘れました」と言ったら話題が雨に濡れた葉や花の話題になり薄茶に会話が盛り上がった。

 

俺が先生に褒められたのはその一言を言えた事らしい。

まさに怪我の功名だしお茶をやってない人からすると伝わりにくい事だと思う。

だけど、普通に生きていたら雨に濡れた庭をじっくり見る事もないし、雨音に耳を傾ける事もない。

それってスマホがでてきて息も絶え絶えになるくらい加速した世の中で見落としている大事な部分だと思うの。

それを感じる事ができるのはある意味贅沢だよね。

 

 

 

 

茶道は座標の稽古

こんにチワワよりダックスが好きな私です。

ごきげんよう

 

今日は少し余裕があるので少し真面目に書く予定(真面目に書くと言っていない)

 

「座標」という表現は初心者がスマブラでトップランクにいけるのかというゲーム動画の解説で使われていた表現なのだけど茶道でもしっくりくると俺は思う。

 

稽古では畳の目で道具を置く場所を教わることが多い。

蓋置は3目3目に置くとか水差しは16目に置くとか。

 

江戸と京都の畳の大きさは違うと茶道を習うまでは知らなかったが畳1目は約1.5センチ。大きさ的には誤差だよ誤差と言えなくもないんだけれど、1目ずれて道具を置いたり自分が座ったりすると本当にやりにくくて仕方がない。

 

まだ俺は身長があるし手もおば様達より長いから多少のごまかしは効くと思うんだけどやっぱりきつい。時に着物を着ると座る感覚に慣れていないから2目くらいずれている気がするし袖がある分、2目くらい窮屈に感じる。

俺は谷垣源次郎みたいなガチムチタイプなので特に横がきつく感じる。

 

そう考えると準備の段階で水差しや釜の置く位置が1目ずれていると全部がずれてくるし、それを修正するのは大変すぎる。これは茶道をやった事ある人じゃないと通じない話だ。

 

人によって体の大きさや腕の長さで多少の位置が変わってくるものの、設計図ではないけれど自分が無理なく相手に見苦しくない位置というのが絶対ある。それが畳の目の座標というのを頭で描いてやるのは俺は効果的だと思ってる。

 

たかが数センチを気にするように稽古して注意ができて違いがわかるようになる。

それって普通に生きていたら見逃している目線だと思う。

 

まぁ数センチがわかるようになると昔のカツラみたいにズレているのに気が付いて気になってしまう小うるさい姑根性みたいなのが自然と身に付くのはデメリットです。

 

だけど仕事やプライベートでは意外と役に立つことも多い。

仕事だと数センチを気にできるようになるという事は細かい所まで注意が行くようになるし、違和感を見つけやすくなっている。

俺の大昔の仕事の評価は大雑把だったが、今は正確で丁寧と評価が天と地ほど違う。

 

プライベートでも自分の気持ちをどこに置くかというのを考えるようになる気がしている。疲れすぎていると部屋が汚くなったり自分がずれた事をやっているなと気が付いたり。自分がありたい座標というか位置とずれてないのかを考えたりする。

ちなみに今の俺の部屋は荒れ模様です。

 

意識すると体も覚えて今では水差しもバシッと置ける。着物を着ている時以外はな!

碁盤の目をイメージしてその座標に自分も道具も置けるために稽古に行っている。

その設計図を描くことで自分の人生にとって何かプラスになっていると思う。

最近そんな事を思うようになりましたとさ。

 

おわり

 

 

 

 

 

国家資格じゃないと思うんですけど

こんばんは。

普通の挨拶なのは新しく異動した場所の仕事が慣れない上に高度過ぎて疲れがマキシマム。もうお手柔らかに頼むよー。休日も変なトラブルに巻き込まれて俺の体はボドボドだ。

 

俺は自他ともに品があまりないという評価だという認識はあるのだけれど、たまにお会いする方は本人は品があると思っているが、陰で品が無いと言われるのは何故だろうかという疑問について。まぁ今回も文句になってしまうけれど許して。

 

長年やっている茶歴の長い方は年功序列の世界で生きてきたから偉そうな人は基本偉そう。性格もあるのかもしれないけれど、それだけではない気がするのは俺だけだろうか。

 

茶道の免状は国家資格ではないから民間の資格の扱いになる。

だがしかしホームページにもあるように資格にランク付けがされている。大学の制度をイメージすると俺は専任講師になる。そういえば昔、大学の授業でクソつまんねぇ授業していたくせに単位取るのが難しかったあの先生は今更思い出して腹が立つ。

 

そんな話は置いておいてホームページには助教授が最高に位置づけされている。

(そういえば教授ってどうやってなるんですかねぇ。オイラにはわからない)

というわけで俺より年齢も上でランクも上の人がほとんどだ。

 

ランクが上で年も重ねている+偉い先生についているというプライドがあるからか結構、俺だけでなく他の人にもギャーギャー言ってくる。

しかもエッ!?というレベルの間違ったデタラメな事を言っても自分が間違っていないと思っているから質が悪い。ただデタラメな事を言っても自分の話している事の間違いを認めないで押し通す胆力だけは尊敬する。

 

何でこんなことが起こるのだろうかと考えていた。

結論としては試験が無い民間資格で申請すれば誰でも取れる資格だからレベルの差が激しいのは仕方ないのかなと思った。

しかも品位で勝負ではなく高い着物とかでマウント取れるし。

最後はついている偉い先生の名前を出してきたりしてお前は小学生の喧嘩レベルのクソガキかとあきれ返る。

 

そういえばカウンセラーとかも民間資格もあってカウンセラーを名乗れるらしいから俺も茶道カウンセラーという謳い文句で教室開こうかな。病んだ世の中に受け入れられそう。

 

和敬清寂、一座建立とかそういうのができる人が茶道の中で素敵な人だと俺は思っているから他人を貶める人は修業が足りないと思うし偉い先生に付いて何を学んでいるんだと問いたい。

喧嘩するなら他所でやれと俺は思う。

仕事が殺伐としているんだから趣味の世界はゆっくりリラックスさせてくれよなというお話でした。

 

しかしパッと見直しても酷い文だが訂正するのもめんどくさいからこのままにする。俺も疲れているな。明日は月曜なんですよ。

読みにくかったら後で訂正しよう。以上閉廷